北大阪急行には、かつて大阪万博(1970年)の輸送を担っていた「会場線(千里中央付近~万国博中央口駅)」が存在しました。
今回はこの会場線の遺構を、当時の写真を織り交ぜながら探していこうと思います!
動画もありますのでぜひ最後までお読みください!
会場線の遺構をさがせ!
北大阪急行の会場線とは
そもそも北大阪急行は、1970年に開催された日本万国博覧会(大阪万博)の主要輸送機関として設立された鉄道会社です。
設立には大阪市交通局・阪急が複雑に関わっているのですが、それは別記事にて解説しています。
現在営業している南北線(江坂駅~千里中央駅)に加えて、千里中央駅の手前で南北線から分岐して万博会場まで向かう会場線が存在しました。
会場線の営業距離は3.6キロ。全区間複線で、駅は仮設千里中央駅と万国博中央口駅の2駅です。1970(昭和45)年2月24日に開業し、同年9月14日(万博閉会の翌日)に廃線となった半年限りの路線です。
千里中央駅は会場線の仮設駅と、南北線の本駅の2つがあります。開業時は会場線の仮設駅が使用され、会場線廃止後に現在の駅が開業しました。そのため2駅が共に使用されていた時期はありません。
本駅も会場線と同時に完成していましたが、万博期間中は未使用で、会場線廃止の翌日から使用開始されました。
余談ですが、本駅を中心とした一帯の「中央地区センター」が会場線開業日に合わせてオープンする予定だったために本駅も併用するよう大阪市企業局が主張したため、2駅併用するという話で工事施工認可申請を行っていたらしいです。大阪市との相互直通運転の協議の中でこの話は消えました。(コンコース階の商業施設も会場線開業時より開業していたため、通路の吹き抜けから未使用の本駅が覗けたとか?)
南北線・会場線の分岐部
先述の通り、万博閉幕後に会場線は廃線となり千里中央本駅を新たに使用開始することは初めから決定していたので、千里中央本駅と仮設駅は同時に建設が進んでいました。
この南北線・会場線の分岐部が1つ目の会場線の遺構です。
現在も車内から分岐部を目視で確認することができます。
このように線路はありませんが、会場線が走っていたであろう場所を覗くことは可能です。
この先はどうなっているのでしょうか。
車内から覗き込んでもトンネルの奥は暗闇、深奥を計り知ることは出来ません。
日本の《異空間》旅行マガジンを紹介する雑誌、「ワンダーJAPON③」にてトンネルの奥の取材記事が掲載されていました。
分岐部から数百メートルで行き止まりとなっており、奥までバラストが敷き詰められているみたいです。
北新田橋(仮設千里中央駅)
千里インターチェンジから東に数百メートル、大阪中央環状線上に架かる北新田橋。
この北新田橋の中央が仮設千里中央駅の出入口と接続していました。ここが2つ目の遺構です。
北新田橋に接続された階段が千里中央駅に接続していたことが分かります。
この角ばった部分から左側に階段が伸びていました。
駅の接続地点を境に、千里中央地区方面の歩道幅員は広く、南方面の歩道幅員は狭くなっています。駅から出た乗客が中央地区方面へ多く流れていったのだろうと想像できます。
現在の姿だけを見るとへんてこな形の歩道に見えますが、裏にはそんな事情があったのでしょう。
仮設千里中央駅から終点の万国博中央口駅まで、現在の中国自動車道上り車線の敷地を借用して走っていました。
万博終了後の翌日から鉄道施設の撤去が始まり、3ヶ月後には日本道路公団に土地を返したそう。その後現在の姿になりました。
編集後記
千里中央~会場間には何か残ってないのかな…?
動画はこちらから!
駅から遺構ポイントへの移動の様子がよく分かると思います!
引用・参考文献
佐野尚「北大阪急行電鉄(万博急行)建設計画について」,鉄道ピクトリアル,1967,第17巻第12号(通算204号),pp.62-63.
小森光昭「北大阪急行電鉄の誕生」,鉄道ピクトリアル,1970,第20巻第1号(通算233号),pp.28-31.
「ワンダーJAPON③」,2021,スタンダーズ.
北大阪急行電鉄「北大阪急行25年史」,1994.
北大阪急行電鉄「北大阪急行50年史」,2018.
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