大阪メトロの「橋」の付く駅いくつ分かる?
淀屋橋
まずは御堂筋線の淀屋橋駅から!
大阪メトロで最初に開業した駅の1つです。
淀屋橋は、中之島の南を流れる土佐堀川に架かる橋梁です。淀屋橋は重要文化財にも指定されています!
橋名の由来は江戸時代の豪商である淀屋から。当時日本一の材木商だった淀屋が米市の利便のために橋を架けたことから、その名を取って淀屋橋と命名されました。
1911(明治44)年には鋼橋(2代目)に架け替えられます。2代目は市電に対応した仕様でした。
1935(昭和10)年には鉄筋コンクリート造りの3径間アーチ橋(3代目)に架け替えられました。これは御堂筋拡幅工事の際に、堂島川に架かる大江橋とともに架橋されたもので、淀屋橋・大江橋のデザインはともに公募で決まったものだそうですよ。
現在の淀屋橋はこの3代目の橋梁で、85年以上現役で活躍しています。
橋の南詰西側には「淀屋の碑」が、北詰の日本銀行正面には「淀屋橋・大江橋 欄干復元」の碑があります。
心斎橋
2つ目は御堂筋線・長堀鶴見緑地線の心斎橋駅です!
御堂筋線ホームは、淀屋橋駅と同様に大阪メトロで最初に開業した駅の1つです。
心斎橋は長堀川に架かっていた橋の名前ですが、長堀川が埋め立てられたため橋は残っていません。
橋名の由来は長堀川を開削した4名のうちの1人、岡田心斎の名前から。
心斎橋は3回架けられており、初代は木橋(1622(元和8)年)、2代目は鉄橋(1873(明治6)年)、3代目は石造橋(1909(明治42)年)でした。その後1962年(昭和37)年に長堀川埋め立てのため撤去されました。
ちなみに2代目の鉄橋は大阪で2番目、日本で5番目の鉄橋でした。心斎橋としての役目を終えた後は3度の移設ののち、現在は鶴見緑地公園に「すずかけ橋」として保存されています。
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1997(平成9)年にクリスタ長堀が完成した際、もとの心斎橋の位置に石造橋の一部がガス灯と共に心斎橋が復元されています。親柱、四つ葉のクローバー型の装飾のある欄干は建造時のもので、橋名・架橋年月・石工棟梁と石材提供人の名が刻まれている。クリスタ長堀の天井部を川に見立て、長堀川の水面が再現されています。
さらに長堀鶴見緑地線のホーム中階には、石造時代の心斎橋の欄干やガス灯をモチーフとした装飾が施されています。
肥後橋
3つ目は四つ橋線の肥後橋駅です!
淀屋橋と同じように、土佐堀川に架かっています。
橋名の由来は北詰にあった肥後藩の蔵屋敷から。肥後藩の蔵屋敷があった地域は肥後島町(中之島にあるため肥後「島」)と呼ばれており、橋名も同じように名付けられたようです。
1888(明治21)年に鉄橋(2代目)に架け替えられました。3代目は1926(大正15)年に第一次都市計画事業によってコンクリートアーチの橋架橋されたものです。
そして現在残っているのは4代目。1966(昭和41)年に地下鉄四つ橋線の建設に伴って架け替えられた橋梁です。
2003年(平成5)年に橋面と高欄部の改修が行われましたが、その際に1966年に架けられた当時の親柱が橋の南詰東側に保存されました。
渡辺橋南詰の東側には、肥後橋と渡辺橋でセットになった顕彰碑が設置されています。その横には渡辺橋の親柱も残っています。
四ツ橋
4つ目は4つ目なので四つ橋線四ツ橋駅です(4回言った)
四ツ橋は同名の橋があったわけではなく、長堀川と西横堀川が十字に交差した地点に「ロ」の字型に架けられていた4つの橋「上繋橋」「下繋橋」「炭屋橋」「吉野屋橋」の総称が四ツ橋です。
長堀川・西横堀川はともに埋め立てられたため、どの橋も現在は残っていません。
四ツ橋交差点に行くと「旧名所 四ツ橋跡」碑が残っています。
四ツ橋はいずれも残っていませんが、4つの橋の名前だけは今でも四ツ橋駅のホームに密かに残っています。
え?探しても見つからない??
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西大橋
5つ目は長堀鶴見緑地線の西大橋駅です!
西大橋も長堀川に架かっていた橋の名前ですが、長堀川は埋め立てられたため橋は残っていません。
長堀通となにわ筋が交差する西大橋交差点には、西大橋の親柱が残っています。
長堀橋
6つ目は堺筋線・長堀鶴見緑地線の長堀橋駅です!
長堀川に架けられた最初の橋で、1625(寛永2)年に架橋されました。当時数少ない江戸幕府が管理する公儀橋の1つで、重要な橋としてした。
長堀川は埋め立てられたため、現在は残っていません。
1号出入口の横には、橋梁の顕彰碑が残っています。
京橋
7つ目は長堀鶴見緑地線の京橋駅です!
長堀鶴見緑地線だけでなくJR線や京阪線も通るターミナル駅ですが、京橋自体は京橋エリアよりも天満橋駅の方が近いです。
大阪城の北に架かる橋でとても重要な橋であったことから、長堀橋同様に江戸幕府が管理する公儀橋に指定されていました。というのも京街道(大坂街道)の起点(のち高麗橋に変更)であり、東海道五十七次の終点で、約100mの長さを誇る大きな橋だったそう(現在は約55m)。
現在の京橋は1924(大正13)年に寝屋川に架けられたものです。1930(昭和5)年より寝屋川の改修事業で橋も改良され、1981(昭和56)年には石垣をモチーフとしたデザインに改修されました。
鶴橋
8つ目は千日前線の鶴橋駅です!
4世紀頃に架けられた日本最古の橋、猪甘津橋が由来とされています。
江戸時代の記録では「つるのはし」と命名されています。「つるのはし」の由来はそこに鶴が多く集まっていたからだそう。
(明治7)年に旧平野川を深く掘り直した際に石橋に掛け替え、(明治32)年には石橋に改修されました。新平野川が開削されたために旧川は埋め立てられ、1940(昭和15)年に廃橋になりました。
旧平野川の流路の上には「つるのはし跡公園」があります。公園入口前の道路上に「つるのはし」が架かっていたそうです。
「つるのはし跡公園」へのアクセスは鶴橋駅ではなく南隣のJR桃谷駅の方が近いです。
日本橋
9つ目は千日前線・堺筋線の日本橋駅です!
読み方は「にっぽんばし」。東京の日本橋は「にほんばし」なので注意です!
日本橋は道頓堀川に架かっている橋梁です。
1877(明治10)年に鉄橋になったのち、1901(明治34)年に架け替えられ、さらに1912(明治45)年には市電が通る鋼橋となりました。
現在の橋は、1969(昭和44)年の地下鉄堺筋線の建設にともなって架け替えられた橋梁です。
日本橋北詰の東側には顕彰碑が残っています。
朝潮橋
10個目は中央線の朝潮橋駅です!
朝潮橋と名のついた交差点はありますが、朝潮橋周辺には川はなく、もちろん橋もありません。調べてみるとこのような記述を発見。
明治36(1903)年、花園橋(西区)から築港に至る築港大道路(現在のみなと通り)が完成し、井路川を渡る橋が多数架けられました。朝潮橋は、それらの橋のひとつとして造られたものです。
大阪市「朝潮橋はどこに?」,2022.03.21閲覧.
「井路川」は川の名前ではありません。新田で水利や運搬のために掘られた水路のことを一般的に「井路川」と言うそうです。大阪には井路川が至る所にありました。その井路川に架けられた橋の1つに朝潮橋があったとのこと。
大阪市電が開通した時(1909年ころ)に朝潮橋という駅名が付けられました。中央線が開業(1961年)する前に川は埋め立てられ橋も撤去されましたが、市電の駅名が中央線の駅名として今でも残っているというわけです。
緑橋
11個目は中央線・今里筋線の緑橋駅です!
緑橋は千間川に架かっていましたが、川に蓋をする「暗渠化」が進んで橋梁は撤去されています。しかし交差点の名前として今も残っています。
千間川の暗渠化は1967(昭和42)年ころから1971(昭和46)年にかけて進められました。
橋のあった場所には橋梁の顕彰碑が残っています。顕彰碑をよく見ると深江橋の名前も…
深江橋
12個目は中央線の深江橋駅!
緑橋と同じように、深江橋も千間川に架かっていた橋ですが、川の暗渠化で橋梁は撤去されています。緑橋と同様に、交差点の名前として今も残っています。
天満橋
13個目は谷町線の天満橋駅!(天満駅と天満橋駅は少し離れているのが少しややこしい)
天満橋は、大川に架かる橋梁です。
橋名の由来は大阪天満宮の参道であることから。連続する天満橋、天神橋、難波橋を合わせて「浪華の三大橋」と呼ばれていました。
上下階式構造の橋で、上層は「天満重ね橋」とも呼ばれています。
元々は大阪天満宮が架橋・管理した橋梁で、1634(寛永11)年には江戸幕府が管理する公儀橋に指定されていました。当時は現在より一筋東に架橋されていました。
1878(明治11)年に現在の位置に付け替えられましたが、1885(明治18)年7月の淀川大洪水で流出しました。
1888(明治21)年には、淀川大洪水の復旧事業として鋼製トラス橋が架橋されています。
1911(明治44)年からは大阪市電の専用橋梁が上流側に併設されます。
そして現在の橋(下層)は、1935(昭和10)年に市電と一体の鉄道併用橋として架橋されたものです。
上層の橋は、1970(昭和45)年に天満橋交差点(土佐堀通)の渋滞緩和のために建設されました。
北詰東側には天満橋の顕彰碑が残っています。
天神橋筋六丁目
14個目は谷町線・堺筋線の天神橋筋六丁目駅!
日本一長い天神橋筋商店街でも有名な天神橋筋。天神橋筋自体は道路名ですが、天神橋筋の由来は堂島川・土佐堀川の2河川に架かる天神橋です。
天神橋自体は南森町駅、北浜駅、天満橋駅の間にあり、天神橋筋六丁目駅からは2kmほど離れているので気づかなかった方も多いのではないでしょうか!
1594(文禄3)年に大阪天満宮が架橋した橋梁です。連続する天満橋、天神橋、難波橋を合わせて「浪華の三大橋」と呼ばれており、大阪天満宮が架橋し、1634(寛永11)年に公儀橋に指定されたことも共通しています。
明治初期に木橋に付け替えられましたが、1885(明治18)年7月の淀川大洪水で流出。
1888(明治21)年には、淀川大洪水の復旧事業として鋼製トラス橋が架橋されています。
そして現在の橋は、1934(昭和9)年に架橋された鋼製3連アーチ橋です。
南詰東側には天神橋の顕彰碑が残っています。
太子橋今市
15個目は谷町線・今里筋線の太子橋今市駅!
太子橋と今市という2つの地名を合わせた複合駅名であることは結構有名かもしれません。そのうち1のつである太子橋という地名ですが、実際には太子橋という名前の橋はないようです。
昭和46年の住居表示実施以前、この地は豊里町・橋寺町と呼ばれており、豊里町はかつて聖徳太子(豊里太子)が寺院を建てるためここで休息されたと伝えられ、また橋寺町は昔、この地に橋本寺という寺があり、その寺名に由来する。
大阪市旭区「旭区町名の由来」,2022/03/21閲覧.
これ以上に詳しい説明がないので推測になってしまうのですが、「太子橋」は「太子」と「橋寺」の融合地名であり、橋の名前ではないと考えられます。
おまけ:信濃橋
最後はおまけ。16番目は信濃橋です。
四つ橋線本町駅の近くに「信濃橋」と書かれた石碑と顕彰碑が残っています。
元々は西横堀川に架かる橋でしたが、西横堀川が埋め立てられてしまったため姿は残っていません。
阪神高速の出入口名になっている信濃橋。実は大阪メトロとも関係があります。というのも最寄りの四つ橋線本町駅は開業時は信濃橋駅という駅名で、この信濃橋に由来しています。開業した1965年はちょうど西横堀川の埋め立てを行っている最中でしたので、橋の撤去が駅名変更の理由ではありません。駅名変更については別の記事で…
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編集後記
16の橋を紹介しましたが、いくつ分かりましたか?
路線図に照らし合わせてみると、都心に多く、郊外には少ない印象がありました。
「橋」のつく駅を通る際には、由来となった橋にも思いを馳せてみてください!
参考文献
近畿地方整備局大阪国道事務所「大阪八百八橋」
心斎橋筋商店街「心斎橋の変遷~年表~」
大阪市旭区「旭区町名の由来」
ニッポン旅マガジン「淀屋橋」,2022.03.22閲覧.
ニッポン旅マガジン「天満橋」,2022.03.22閲覧.
ニッポン旅マガジン「天神橋」,2022.03.22閲覧.
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