長柄駅は、現在の阪急千里線の区間にかつて存在した駅。
今回の記事では、約80年前まで存在した今や幻の駅「長柄駅」を文献・現地の両面から調査し、まとめていきます。
長柄駅をさがして
長柄駅のれきし
長柄駅は大阪市北区にあった駅で、阪急千里線の天神橋筋六丁目駅~柴島駅間に位置していました。
1925(T14)年10月15日 | 新京阪鉄道 淡路駅~天神橋駅間が開通。 |
1925(T14)年12月1日 | 新京阪鉄道 長柄駅が開業。(*) |
1930(S5)年9月15日 | 新京阪鉄道が親会社の京阪電気鉄道に統合し、 「京阪電気鉄道 新京阪線」の駅となる。 |
1943(S18)年10月1日 | 京阪電気鉄道が阪神急行電鉄と合併して京阪神急行電鉄となり、 「京阪神急行電鉄 新京阪線」の駅となる。 |
1944(S19)年2月1日 | 長柄駅が廃駅。 |
(*)長柄駅の開業日に関して
長柄駅の開業日に関して、書籍によって2種類の記述が見られました。
京阪の50年史→1925(T14)年12月1日に開業(新京阪線開業から2か月遅れ)。
大淀区史→同年10月15日に開業(新京阪線と同時開業)。
ただ京阪50年史の「路線開業に遅れて開業」がデマである可能性は考え難いため、京阪50年史の記述が正史だと管理人は捉えています。
京阪の新路線建設のために発足した子会社「新京阪鉄道」の一部として、長柄駅は開業しました。開業当初より天神橋駅~長柄駅~淀川橋梁間は高架区間で、関西の鉄道では最初の高架鉄道です。
その後は京阪との統合、阪神急行(現 阪急)との統合と、幾度と変化を経験しているものの開業から廃駅までは19年と非常短い期間でした。
淡路駅~天神橋駅間はその後、京都本線、千里線と路線名を二度変えることになりますが、長柄駅は最初から最後まで新京阪線の名を冠していたのですね。
長柄駅のむかし
長柄駅があった当時の様子を見ていきます。
大淀区(現 北区の一部)の歴史をまとめた大淀区史に、長柄駅に関する記述がありました。
一方、新京阪鉄道の天神橋(天六) ―淡路間三・三キロメートルは、大正十四年十月十五日営業を始めた。 大阪初の高架で、天六の次に、長柄駅 (淀川南詰め)があった。ホームの上屋もない簡素な駅だったが、昭和十九年二月一日廃止された。
大阪都市協会「大淀区史」,p.180.
長柄駅のホームは上屋もない簡素な駅だったそうです。
写真では駅の先端しか見ることができませんが、駅の他にも当時最速伝説をのこした新京阪P-6型車両とトラス型の橋梁(新淀川橋梁)が映っています。新淀川橋梁の目前に駅があったんですね。
年に撮影された空中写真です。新淀川橋梁の南詰(天神橋駅側)に駅らしき施設が見えます。青枠で囲っている箇所です。
この地図上で計る限りはホームはおそらく40m前後でしょうか。19m級車両が2両分で妥当ですね。
地名的には、線路東側が長柄で、西側は天神橋になります。天神橋は駅名として使用されているので、長柄駅は妥当な命名ですよね。
また天神橋筋(地図左の広い道路)には大阪市電長柄橋駅がありました。
大阪市電長柄橋駅(1927(S2)年10月17日~1966(S41)年4月1日)
大阪市電長柄橋筋線の駅で3系統の終端駅。
新京阪長柄駅の開業から2年後に開業し、堺筋線工事のために廃止された。
長柄駅について調べて、分かったことはこれくらいでした。少ない…!
もっと情報や写真ないかなぁと思って調べましたが全然見つからないです。(何かご存じの方はご連絡ください!!)
なので長柄駅のむかしについてはここまでにしておきます。
長柄駅のいま
最後に長柄駅のいまを見ていきましょう。
まずは航空写真とGoogleEarthを使ってリサーチです。
1つ目は航空写真です。
先ほどの地図と同じ場所を、青枠で囲っています。架線柱の位置からおおよその長柄駅の位置の見当が付きそうです。
次にGoogleEarthで現地を見てみましょう。
架線柱の位置関係から長柄駅の位置を割り出してみました。こう見ると本当に小さい駅だなあ。
では位置もおおよそ把握できたところで、現地を見てみましょう!
まずは淀川河川敷から阪急高架線を望みます。
ズームすると長柄駅跡の場所が分かります。架線柱の位置から考えるとおおよそ車両先端あたりが長柄駅のあった場所と思われます。
高架下は民間の工場や事務所となっているようです。
…うーん、普通の高架線にしか見えないですね…。
河川敷を下りて駅跡の近くまで来ました。
構造物の青白いエリアよく見ると、補修された箇所をいくつも見ることができます。これは長柄駅の構造物を取り壊した跡とみていいのでしょうか…?
また反対側も見てみましたら、こちらにも補修の跡が見てとれます。
…うーん、決定打がない…
なにせ廃駅が80年前なもので、構造物を取り壊した跡なのか、全く関係のない補修の跡なのか…いまいち駅跡だと断言し難い自分がいます。場所的には確実なんですがね。
ところで長柄駅跡すぐの天六側にある橋梁ですが、
「長柄架道橋」というそうです。単純に地名から引っ張られてきているだけだと思いますが、一応この記事に記しておきます。
ということで、現地調査はここまでです。
おわりに
廃駅が80年前ということで本当に情報が少ないですし、現地を見てもいまいちな感じでした。阪急千里線に関する書籍をあさっていても触れてないことがほとんどです。
だからこそこの記事のように情報を集約しておくことは、将来に廃駅の存在を伝えるためにも貴重なことだと感じています。
大阪メトロに関しては、廃駅はまだない(仮駅が廃止された例は2駅あります)ので記事にできることはないのですが、他路線(特に阪急)で廃駅関係の記事は今後もまとめていきたいなと思いつつあります。
引用・参考文献
大阪都市協会「大淀区史」,1988,大淀コミュニティ協会.
京阪電気鉄道株式会社史料編纂委員会「鉄路五十年」,1960,京阪電気鉄道.
コメント
そこだけ高架壁の部材が違うので
おそらくその場所で
間違いないでしょうね。
色落ちの観点ではなく
部材の観点からすぐわかります。
補修の跡は形的に断面修復工法だと思うので、駅の構造物を撤去したものではないです。
こんにちは、はじめまして。
いつもサイトを楽しく拝見させていただいています。
私は大阪市内に産まれ育って半世紀過ぎの阪神沿線住民です。
以前、長柄駅の痕跡を探しに、何度か付近をウロウロしたことがあります。
淀川の橋梁から天六方向に少し歩いて、東向きの一方通行で城北公園通への抜け道になっている道路を越える辺りの高架橋の南寄りの上下線ともに、階段を撤去したような跡が付いていました。
ここからは私の個人的な推測になりますが、写真に写っている橋梁は、淀川に架かる橋梁ではなくて、淀川に隣接していた中津川運河に架かる橋梁の可能性があります。
柴島-天六(天神橋)間の橋梁は、淀川の堤防のかさ上げもあり、堺筋線の開業に向け、掛け替えられています。
また、中津川運河に架かる橋梁は、中津川運河の暗渠化もあり、同時期に撤去されていると思われます。
そうであれば、前述の痕跡と、写真の中のホームと橋梁の位置関係や、空中写真のホームの位置関係のつじつまが合うように思います。いかがでしょうか。